【女の罪と人形の涙】──奉行所が記した“女たちの生”
- Emi | Kenshirou Siba Labo

- 2025年11月13日
- 読了時間: 3分
「女は、なにをしても罪になるのか——」
江戸時代の記録を読んでいると、ふとそんなことを思ってしまう。
講談社現代新書『江戸の犯罪録 長崎奉行「犯科帳」を読む』(松尾晋一著)に記された判決の数々は、どれも現代の私たちの感覚をゆさぶる。
たとえば、こんな記録がある。
・妊娠して奉公先に迷惑をかけた女、死罪。
・密通が発覚した妻は死罪、相手の男は遠島。
・男をめぐって争った女は鼻を削がれ、見せしめに市中引き回し。
・堕胎を依頼した女も、堕胎を手伝った者も、同罪。
それが、江戸のリアルだった。
でも、そんな“女たちの罪”を、舞台の上の人形たちは、涙ながらに語っている。

ある日、人形浄瑠璃の現代語訳に取り組んでいた私は、『恋飛脚大和往来』を読んでいた。
この作品に登場する遊女の梅川(うめがわ)は、
愛した男の公金横領という大罪をかばうため、それでも彼のために命を投げ出そうとする。
彼女の行為は、現実ならば「共犯」だ。
なぜなら――
梅川は、愛する男の窮状を救うため、奉行所に対して、男の罪を「抜荷(密貿易)に関わった」という嘘を伝えたのだ。
本当は男が為替金(公金)を横領したことを、罪を軽く見せるための「偽りの証言」でかばおうとした。
それは、奉行所の目から見れば“偽証罪”であり、
場合によっては公金横領の共犯として死罪になる可能性すらあった。
愛を選んだ女の、一途な共犯の罪も、
幕府の法には届かない。
奉行所は冷たく記す。
「女、偽証と公金横領の共犯により、死罪」
――女が犯した罪。
それは、「愛ゆえの過ち」という言葉で許されるものではなかった。
なぜなら、「愛」は“感情”であり、
“法”はそこに情けを挟まないからだ。
にもかかわらず、舞台の上では、梅川の“涙”が語られる。
誰もが泣く。
人形すら、泣いているように見える。
同じように、『心中天網島』の小春や、『お夏狂乱』のお夏もそうだ。
観客は、その涙に胸を打たれ、
罪を犯した女にすら、情があると知る。
——それが、人形浄瑠璃という物語の魔法だった。
生き方を選べなかった女たち。
愛を信じることでしか、生きられなかった女たち。
罪を背負ってもなお、愛を選んだ女たち。
それは、裁かれるべきことだったのか。
それとも、裁ききれない「生」だったのか。
犯科帳では、女たちは“冷たく”裁かれていく。
でも、舞台の上では、女たちは“熱く”語られていく。
三味線の音にのって、
太夫の声にのって、
人形たちの目が、手が、心が、観客に語りかけてくる。
「これは、罪ではありません。これは、生きた証です」と。
江戸の裁きは、「秩序を守るための仕組み」だった。
舞台の語りは、「心を理解しようとする仕組み」だった。
だからこそ、人形たちの涙は美しい。
そして同時に、苦しい。
それは、歴史に取りこぼされた無数の「女の声」が、
今も、どこかで泣いている気がするから。
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